嬉野八十八(やどや)
地域の物語を宿す、木の温泉宿
JR九州グループが手がけた新しい旅館づくり
JR九州グループは地域を元気にするという使命感を持ち、九州地域において旅館事業を展開。昨年10月、佐賀県嬉野市に三館目となる高級温泉宿「嬉野 八十八」を開業した。この開発は嬉野温泉で長年営業していた神泉閣の閉館情報をいち早く入手した東急建設が同社に紹介したことからスタートした。地方の旅館事業は都心のホテル事業と比べてコストが高く、リターンが少ない傾向がある。しかし同社は地域振興や文化継承という観点からこの事業の重要性を認識し、地域に不可欠なものと考えている。嬉野 八十八の開発においても都心のホテル事業とは異なる、地域の特性を活かした戦略が求められた。
「コンセプトメイキングは以前からお世話になっていた岡部先生に相談しました。その中でコンセプトとして挙げられたのが『嬉野のお茶』と『嬉野の温泉』、嬉野が誇るニ大ブランドです。お茶と温泉をいかに掘り下げて上質なものを提供していくか、地域の魅力を最大限に引き出すことを目指しました。お茶を感じられるような設えであったり、壁の色や天井クロスもお茶色を随所に出しています」と開発にも携わった吉田さんが当時を振り返る。
嬉野 八十八はRC造の母屋24室と木造の別邸12室で構成されている。別邸は全室スイートルームで最大100㎡の客室を備え、稼働率は当初の期待を上回っているという。母屋は7割以上、別邸は3割が稼働しており、相場の2倍〜4倍という高額な価格設定が市場に受け入れられているようだ。九州では類を見ない旅館のグレード感、自宅のように寛げる客室空間、高品質なサービスが高く評価され、リピーターも増加しているという。
「これからも新しい市場を創り、嬉野の価値を高めていきます。当館に倣って周辺の旅館が高額帯の部屋を販売しようとしていますが、それだけでも私たちがこの地に進出した意味があったと思います」。
太極舎の岡部さんは基本設計の前段である企画、ブランドコンセプトワークから嬉野 八十八の開発に深く関わっている。「私にとって旅館を運営する企業と旅館を利用する宿泊客の両者がお客様です。企業の事業計画に寄り添いながら新しい宿泊客(市場)を生み出していくことが私の仕事。そうした意味で客室単価はできるだけ開きがないほうがよいと考えています。客層を平均化できればサービスに均一性が出ます。嬉野 八十八では宿泊客を圧迫しない、上質な寛ぎを提供したかったので別邸の客室が理想的です。母屋はそうした機能がコンパクトにまとまったイメージ。そしてこの別邸は木造という構造に大きな意義があったと考えています。これからは日本の森を守らなければなりません。木を活用してまた植えてあげる、森のお世話をする循環が必要です。木造は2階建てだと音の問題をクリアしなければなりませんが、今回は平屋。だからこそという思いはありました。でも構造が難しかったですね。1500㎡以内の制約の中でやりましたが規模としてはかなりの大型。東急建設さんには申し訳ないのですがかなり大変だったと思います(笑)」。
右/東急建設株式会社 九州支店 建築部 設計・設備グループ 柴田俊太郎さん。
同館の実施設計は東急建設が請負い、一般的な効率性を重視するゼネコンのアプローチとは異なり、高付加価値と贅沢な体験を創出することに重点が置かれている。例えば建物のゾーニングはコンセプトのひとつである『源泉100%かけ流し』の贅沢な温泉旅館が感じられるよう計画されている。敷地内に存在する2つの源泉の1つは敷地の中央にあった。しかし源泉まわりに設備室を配置せず、そこには建物のエントランスを配置して湯けむりを演出した。湯は源泉から敷地の端に配置した設備ゾーンを迂回して再び建物へと運ばれていく。
もうひとつ特筆すべきは別邸の配棟計画だ。別邸の建物はドーナツ状の回り廊下に沿って雁行状に配置され、変化のある廊下空間から水場や庭の景観を楽しめるように設計されている。温泉配管は地下に配置されているが、こうした複雑な配棟を実現するために基礎の形状から排水計画に至るまで、細部にわたり試行錯誤を繰り返した。事業主と岡部さんの想いを形にする効率性とデザイン性をバランスさせた独自のアプローチは、伝統的な建築の考え方と革新的な設計の融合を示す好例といえよう。
RC造やS造を扱う設計者にとって、事例・実績の少ない中規模木造建築は未知の領域だ。構造的にはオーソドックスな在来構法ではあるものの、防火被覆と仕上げや設備との取り合い、床の段差然り、バルコニーの取り合いなど、今回は特に納まりに苦心したという。魅せ場である客室の浴室はコンクリートを立ち上げずに木の構造体を防水しなければならず、屋根が複雑に雁行する建物の谷間の止水への対処にも独自の解決策を見出している。またデザイン面での挑戦も多かったようだ。
「あれだけ平面が複雑な木軸組を破綻させずに実現した自分を褒めてあげたいですね。梁も雁行していましたからサイズもバラバラで、折上天井内に納まるかどうか一本一本丹念にチェックしてなんとか納めました。そして雁行する客室同士は9mくらい接しています。普通なら構造体の柱にボードと遮音材だけですが、今回は1本柱を追加して2本の軸を設けました。柱自体が触れないように5ミリの隙間を開けて互いの振動が届かないように配慮しています」と東急建設の柴田さんは困難を乗り越えた充実感を語る。
これほど複雑な建物の施工に何を思ったのか、現場を指揮した東急建設九州支店の坂口さんには施工者の立場から話を伺った。
「高級温泉旅館として源泉かけ流しの温泉配管を隠すことが施工的に大変でした。別邸は平屋の住宅が12戸連なっている建物をイメージしていたのですが、基礎はまったく異なりました。1階床下の耐圧版の高さが1部屋毎に配管の有無により3種類ありました。配管のメンテナンススペースを確保した部分が最も深く、配管のない部分の床下が浅いイメージです。深い耐圧版から順番に施工し、最後に木構造の土台を受ける立ち上りを打設する手順で進めました。
浴室の床下は二重スラブの施工もありました。別邸を3つのエリアに分けて端から順番に施工を行いクレーンの届く範囲が限られ、後施工部分を計画したために木造平屋の基礎とはいえ労務不足も影響して最終的に基礎工事が完了するまでに約4ヶ月の時間を費やしました。それもなんとか乗り切って今がありますが、いずれにしてもこれだけの高級旅館を手掛けたことは九州支店として相当な実績になると思います」と経験値を得た喜びを語ってくれた。
嬉野 八十八の別邸に触れて感じるのは空に伸びる高層木造建築ではなく、地域振興や文化継承という背景のもとに、水平に広がっていく中規模木造建築の可能性。同館の別邸は木造構法としては一般的な在来構法で建設されてはいるものの、このような商空間にこそ伝統的日本家屋の未来を見出すことができるのではないだろうか。
